今日は絶望を絶望のままに書いているので、そこにあえて光をあてようとはしていません。
お体のすぐれない方はご注意ください。
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カウンセリングをはじめて数年の月日が経った。
自費だから高額だけれど、対症療法では根本の解決にはならないと思っているので、なんとか通っている。
思い出したくもない過去を毎回思い出すので、終わった後は極度の倦怠感に襲われる。たまにそのせいで不安定にもなる。それでも通い続けているのは、自分の閉ざされた感情を知りたいから。
そして、ずっとひとりで抱えていたものを手放したいと思っているからなんだと思う。
カウンセリングを受けて常々感じているのは、人の気持ちを理解するのはそう簡単ではないこと。
たぶん、永遠の謎。
そして、人は人を変えられないとはよく言われるけれど、自分を変えることさえも容易いことではないのだ。
何度も治療を中断しながら、ようやく自分がどんな状態にあるのかがわかってきている。わかったことで、対処できることも少しずつ増えてきた。
けれど、一筋縄ではいかないのが人の心というものなのかもしれない。
心は単純なようで、とても複雑だ。
説明できるようでいて、説明できないものだと思う。
やっぱり永遠の謎だ。
心についた傷を目視することはできないから、たとえ望んでも心を手術してもらうなんてことは叶わない。
けれど、人の心をとおして自分の心を知ることはできると思う。体感的なことでしか実感できないけれど、変化はたしかに感じられるのだ。知ることで、どう自分の心の状態を扱っていくか、戦略を練ることもできる。
戦略を練って、試して、失敗したらまた戦略を練る。
それを繰り返し繰り返しめげずに重ねていく。
そうすれば少しずつ、古傷の痛みが緩和していくように思う。
「あ、今日は雨だから古傷が痛むのか」くらいはわかるようになったから。
ただそれでも頻繁に、振り出しに戻ってしまうことがある。
カウンセラーいわく、人の気配がないような場所へ深く深く閉じ込められた私が感じた絶望を、他の私たちもいまだ感じ続けているらしい。体はひとつだから、解離していても結局は運命共同体というわけだ。
その絶望を感じると、たちまち投げやりになってしまう。ひたすら強い力にひっぱられていく。
閉じ込められた私は何十年経った今も、ずっと閉じ込められたままなのだ。これは比喩なんだけど、比喩ではない。
実際に私は、普通に生活しているわけで、今現在どこかに閉じ込められているわけではないけれど、その気持ちが凍結したまま私のなかで残り続けている。目には見えないけれど、たしかにあるのだ。
簡単には溶けてくれない。
現実を見ないようにして、解離して意識を散らした当時の私の気持ちを、私は理解したいと思っている。
いまだ絶望し続けている私に、すべてを押しつけて感覚を麻痺させた自分を情けなく思う。
申し訳ないとも思う。
歩み寄りたいと思っているけれど、私は私にさえ心を開いてはくれない。それだけの絶望を私が理解できるのか、様子をうかがっている感じなのだ。
心を開いてくれたと思うと、また遠ざかっていく。
まるでエッシャーのだまし絵のなかにいるみたいに、来る日も来る日も、無限ループの階段を登り続けている。
無限ループ。
もしかしたらそれこそが、私の感じた絶望なのかもしれない。