むかし働いていた職場の人から連絡があった。
「元気ですか?」
その言葉に、胸をぎゅっと掴まれる感じがした。
突然機能停止になった私に、今もそんな優しい言葉をかけてくれる人がいることをありがたく思う。
あの頃は、仕事が生活の中心だった。自分の中で何かがざわつきはじめると、それを隠すみたいに仕事に没頭した。でもそれもつもりだから、ちょっとしたことでミスをしたり、空回ったりしていた。
もう思い出すだけで赤面するようなことの数々。
「忙しい」を口癖にして、自分のことを蔑ろにしていたから、他人のことも蔑ろにしていた。
今思い返してみても、ヒドイもんだ。
働けなくなって、仕事を辞める決断をするまでにも時間がかかった。
そんなイタい状態でも、働くことで精神を保てていた部分がギリギリあったから、仕事をしない選択をしなきゃいけない自分を受け入れられなかった。
今考えても往生際が悪すぎる。
まったく仕事をしなかった時期を経て、数年前からまた仕事をするようになった。というか、何かをはじめたくなった。
人間って暇がありすぎても、しんどくなるんだなぁ。
仕事をはじめたけれど、むかしのような働き方は止めた。
家族を、自分を大切にする働き方に変えた。
そしたら、前よりも明らかに平和なのだ。心が穏やかなんです。
自分には仕事しかないと勘違いしていた時期に比べて、生活することに重きを置くようになってからは、笑っちゃうくらいに見える景色が変わった(よく言われることだけどホントでした)。
私で言えば、暗闇のなかにちょっとだけ光が入るようになって、シェアハウスの住人たちの特徴がわかるようになってきた感じだろうか(自分でもこんな言い方をするのは怖いのですが、シェアハウスの住人とは頭の中の住人のことです)。
「こんな生き方もあったのか」
「こんな考え方もあるのね」
そうやって色んな生き方や考え方を認めて、尊重しようと思えるようになったんだと思う。それってどんな人間も尊重し、否定しないことに似ている。
多様性とかもそう。
でも「みんなそのままでいいよ」と簡単に言える話でもないと思う。もちろん尊重できる部分は尊重したいけれど、尊重ばかりしていたら今度はまとまらなくなってしまう。まとまらないと、ずっとその場で足踏みするか、喧嘩が勃発する。
だから尊重も大事だけれど、その上で譲歩することが今の私にとっては必要な気がしている。体は一つしかないのだから。
そのためには自分(たち)の“身の丈”を、しっかり見極めなきゃいけないと思う。
それはそうと、自分を認めるって、他人も認めることだったんですね。