「わからない」にとどまる怖さ

 

わからないって怖い。

できるだけ、わからないままにしておきたくない。

だから適当に説明をつけて、無理やり自分を納得させようとしてしまう。

わからないと、いつまでもそのことを考えてしまうから。

 

説明ができないものは、怖い。

 

 

 

 

子どもが入院した。

予定手術だから、こちらは心の準備はできていた(手術を受ける本人は、そうじゃないだろうけれど)。

こういうのは何度経験しても、慣れるものじゃない。

 

 

小児病棟は独特の雰囲気がある。

言葉にならない声が、なにかを懸命に訴えている。その声は、母親を呼んでいるのか、ここから出してくれと言っているのか、はっきりとは聞き取れない。

叶わないと知ってか知らずか、全身を使って声をしぼりだしている。

 

 

消毒の匂い。

急ぎ足の足音。

靴が床に張りつく音。

あちこちで鳴り響く医療機器の音。

小さな腕に巻きつけられた包帯。

ベッドの柵から覗く小さな目玉。

 

 

すべてが忙しなく訴えてきて、目の前がクラクラする。

ここでは、「わからない」が溢れている、そんな気がした。

はっきりしないことが、こんなにも恐怖を掻き立てるのかと思う。

 

 

子どもたちは、もっとそんな風に感じているのだろうか。

 

なぜだか私には、子どもたちの方がわからないことに慣れているように思えてならない。

 

大人は、「知っている」からこそ、「わからない」に不安を感じるのかもしれない。

子どもは、わからないことすら、わからないのかもしれない。

 

でも、もっと本能的に「わからない」を、はっきりしない世界を、受け入れている気がする。うまく言えないけれど。

 

その覚悟を、じっとこちらを見透かしているような眼差しから感じるのだ。