ざわつきが静寂に変わる瞬間

 

ふとしたときに、今、出口のない場所にいるかもしれないと感じることがあります。

でもそういうときほど、目の前のことを淡々と片づけていくうちに、少しずつ落ち着いていくように思います。

料理を作って、洗濯をしてそれを干して、掃除機をかけて。

そうやって生活を営んでいると、意識していると、ひょんなところに扉を見つけられることもあって。

答えを見つけなきゃ!と焦れば焦るほど、それは遠ざかっていくような気がします。

 

そういうときは、何も見出さなくていいのかもしれません。何かを見出そうともがくから苦しくなるわけで、何もせずにただそこにいるだけで十分だと思えることが大切なんだと思います。なかなか難しいけれど。

 

ここで映画の話をひとつ。

聴覚を失った男性の挫折と再生を描いた『サウンド・オブ・メタル〜聞こえるということ〜』という映画があります。

主人公のルーベンは、ドラマーとして自由気ままに暮らしていましたが、突然難聴になって聴力を失います。

それで、聴覚障がいがある人たちのコミュニティに行くのですが、「ここは自分の居場所ではない」と気持ちばかり焦ってしまう。

そりゃぁそうですよね。

コミュニティがどんなところかわからないし、現実もまだ受け入れられていないんだから。

手持ち無沙汰になると自分から仕事を見つけて、忙しなく動いてしまう。

 

するとそこのリーダーから、こんなことを言われるんです。

 

「何も達成しなくていい。そこにじっと座っていればいい」

 

何もしないってすごく難しいですよね。

生きていれば誰かの役に立ちたいですし。

心がざわついているときほど、何もせずにじっとしているって簡単じゃない。

だって心は穏やかじゃないから。

何かしなきゃ!対処しなきゃ!って必死になる。

 

だからいつも私は、自分の心にさざ波が立ちはじめたら、この映画を思い出すんです。

今は、何もしないに尽きるな。

最低限のことをせめてきちんとやって、あとは何もしない。

料理をして、洗濯をしてそれを干して、掃除機をかける。

ただ黙々とそれらをやる。

そうすると、わずかな時間でも静寂が訪れて、心の平穏を感じられる、そんな気がするんです。

 

無限ループの階段をのぼる

今日は絶望を絶望のままに書いているので、そこにあえて光をあてようとはしていません。

お体のすぐれない方はご注意ください。

 

 

カウンセリングをはじめて数年の月日が経った。

自費だから高額だけれど、対症療法では根本の解決にはならないと思っているので、なんとか通っている。

思い出したくもない過去を毎回思い出すので、終わった後は極度の倦怠感に襲われる。たまにそのせいで不安定にもなる。それでも通い続けているのは、自分の閉ざされた感情を知りたいから。

そして、ずっとひとりで抱えていたものを手放したいと思っているからなんだと思う。

カウンセリングを受けて常々感じているのは、人の気持ちを理解するのはそう簡単ではないこと。

たぶん、永遠の謎。

そして、人は人を変えられないとはよく言われるけれど、自分を変えることさえも容易いことではないのだ。

 

 

何度も治療を中断しながら、ようやく自分がどんな状態にあるのかがわかってきている。わかったことで、対処できることも少しずつ増えてきた。

けれど、一筋縄ではいかないのが人の心というものなのかもしれない。

心は単純なようで、とても複雑だ。

説明できるようでいて、説明できないものだと思う。

やっぱり永遠の謎だ。

 

心についた傷を目視することはできないから、たとえ望んでも心を手術してもらうなんてことは叶わない。

けれど、人の心をとおして自分の心を知ることはできると思う。体感的なことでしか実感できないけれど、変化はたしかに感じられるのだ。知ることで、どう自分の心の状態を扱っていくか、戦略を練ることもできる。

戦略を練って、試して、失敗したらまた戦略を練る。

それを繰り返し繰り返しめげずに重ねていく。

そうすれば少しずつ、古傷の痛みが緩和していくように思う。

「あ、今日は雨だから古傷が痛むのか」くらいはわかるようになったから。

 

ただそれでも頻繁に、振り出しに戻ってしまうことがある。

カウンセラーいわく、人の気配がないような場所へ深く深く閉じ込められた私が感じた絶望を、他の私たちもいまだ感じ続けているらしい。体はひとつだから、解離していても結局は運命共同体というわけだ。

その絶望を感じると、たちまち投げやりになってしまう。ひたすら強い力にひっぱられていく。

 

閉じ込められた私は何十年経った今も、ずっと閉じ込められたままなのだ。これは比喩なんだけど、比喩ではない。

実際に私は、普通に生活しているわけで、今現在どこかに閉じ込められているわけではないけれど、その気持ちが凍結したまま私のなかで残り続けている。目には見えないけれど、たしかにあるのだ。

簡単には溶けてくれない。

現実を見ないようにして、解離して意識を散らした当時の私の気持ちを、私は理解したいと思っている。

いまだ絶望し続けている私に、すべてを押しつけて感覚を麻痺させた自分を情けなく思う。

申し訳ないとも思う。

 

歩み寄りたいと思っているけれど、私は私にさえ心を開いてはくれない。それだけの絶望を私が理解できるのか、様子をうかがっている感じなのだ。

心を開いてくれたと思うと、また遠ざかっていく。

まるでエッシャーのだまし絵のなかにいるみたいに、来る日も来る日も、無限ループの階段を登り続けている。

無限ループ。

もしかしたらそれこそが、私の感じた絶望なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

まるまった靴下は甘美な香り

 

我が子が脱ぎ捨てた、まるまって裏返しになっている靴下を見つけると、匂いを嗅ぐのを抑えられないのです。

なんかこう、絶対臭いってわかっているんだけど、我が子のだからなのか、その臭さも「くさい」じゃなくて「かわいい」に変わってしまう。

くさいがかわいいに変わるって、妙な話なんですが。

友人たちの姿を見ていても、結構な割合で、子どもの汗の匂いなんかを嗅いでは「クサイクサイ」って喜んでいる気がする。

これは本能的なものなんでしょうか。

 

たとえば赤ちゃんはいい例ですよね。

うんちやおならが出て喜ばれるのって、赤ちゃんの特権だ。

「わぁ、出たね」「すごーい!出た出た」

本来は嫌厭されるものを、あえて身を乗り出して見ようとする大人たちの顔を何度も見てきた。

みんな嬉々としている。

妙だ。

妙だけど、そこに人間のおかしみと美しさを感じてしまう。

我が家の子どもたちは赤ちゃんに比べたらだいぶ大きいけれど、多分同じ類の話ではなかろうか。

「今日もたくさん汗をかいたから、こんなに臭いんだね」

ここまでハッキリと言葉にはしないけれど、こういう感じのことを毎回思っている。

その根底にあるのはきっと、「生きてる」という実感なんだと思う。

あぁ、今日もこの子たちは「生きてるゾ、よしよし」という実感からくる喜び。

その喜びを感じるから私は、まるまった臭そうな靴下に、甘美な魅力を感じてしまうんです。

 

身の丈に合った暮らしを探して

 

むかし働いていた職場の人から連絡があった。

「元気ですか?」

その言葉に、胸をぎゅっと掴まれる感じがした。

突然機能停止になった私に、今もそんな優しい言葉をかけてくれる人がいることをありがたく思う。

あの頃は、仕事が生活の中心だった。自分の中で何かがざわつきはじめると、それを隠すみたいに仕事に没頭した。でもそれもつもりだから、ちょっとしたことでミスをしたり、空回ったりしていた。

もう思い出すだけで赤面するようなことの数々。

「忙しい」を口癖にして、自分のことを蔑ろにしていたから、他人のことも蔑ろにしていた。

今思い返してみても、ヒドイもんだ。

働けなくなって、仕事を辞める決断をするまでにも時間がかかった。

そんなイタい状態でも、働くことで精神を保てていた部分がギリギリあったから、仕事をしない選択をしなきゃいけない自分を受け入れられなかった。

今考えても往生際が悪すぎる。

 

まったく仕事をしなかった時期を経て、数年前からまた仕事をするようになった。というか、何かをはじめたくなった。

人間って暇がありすぎても、しんどくなるんだなぁ。

仕事をはじめたけれど、むかしのような働き方は止めた。

家族を、自分を大切にする働き方に変えた。

そしたら、前よりも明らかに平和なのだ。心が穏やかなんです。

自分には仕事しかないと勘違いしていた時期に比べて、生活することに重きを置くようになってからは、笑っちゃうくらいに見える景色が変わった(よく言われることだけどホントでした)。

私で言えば、暗闇のなかにちょっとだけ光が入るようになって、シェアハウスの住人たちの特徴がわかるようになってきた感じだろうか(自分でもこんな言い方をするのは怖いのですが、シェアハウスの住人とは頭の中の住人のことです)。

「こんな生き方もあったのか」

「こんな考え方もあるのね」

そうやって色んな生き方や考え方を認めて、尊重しようと思えるようになったんだと思う。それってどんな人間も尊重し、否定しないことに似ている。

多様性とかもそう。

でも「みんなそのままでいいよ」と簡単に言える話でもないと思う。もちろん尊重できる部分は尊重したいけれど、尊重ばかりしていたら今度はまとまらなくなってしまう。まとまらないと、ずっとその場で足踏みするか、喧嘩が勃発する。

だから尊重も大事だけれど、その上で譲歩することが今の私にとっては必要な気がしている。体は一つしかないのだから。

そのためには自分(たち)の“身の丈”を、しっかり見極めなきゃいけないと思う。

 

 

それはそうと、自分を認めるって、他人も認めることだったんですね。

メダカよりもヴィゴ・モーテンセンがよかったんです、あの頃は

 

駅で男子高校生たち4人組が、なにやら楽しそうに談笑している。

 

 

「オレさ〜小学生に戻りたいわ」

「え?小学生は幼すぎだろ」

「俺は早くオトナになりてぇわ」

「オレも俺もー」

「早く大人になりてーなー!」(全員)

 

 

セリフか何かですか。

思わずツッコミたくなるほど、私にも身に覚えのある会話だった。

 

 

彼らの言うオトナって、どんな大人を想像しているんだろうか。

 

私もかつて高校生くらいのときにそんな感じのことを漠然と思い、早く大人になって自由になりたいなんて友だちと言い合っては笑っていた。

でも今になってみれば、あのヒリヒリとした傷をむき出しにして歩いていたような時期が、懐かしくてたまらない。

 

口うるさい親から解放されて自由に生活したいとか、自分でお金を稼いで好きなモノを買いまくりたいとか、そんなことを思っていた気がする。

一人暮らししたらどこどこに住みたい、高校生では手が届かないブランドの服を買いまくりたい、外見がめちゃくちゃタイプの人と結婚したい(ちなみに当時のタイプは、ヴィゴ・モーテンセン)とかね。

 

ないものねだりなんだけど、ないものねだりだってことすら気づかずに、あーだこーだ言っていた。

今が永遠に続くような気がしていたから。

 

 

 

 

当時知り合いのおじさんが「子どもと一緒にメダカを世話しているときに幸せを感じる」と言っているのを聞いて、「メダカかよっ」と思った(ごめんなさい)。

 

 

今はわかるよ。

ブランド品よりもメダカを愛でたい。

自分ではない生き物を愛でながら暮らしたい。

 

でも当時は、メダカよりもヴィゴ・モーテンセンだった。

現実のすべては妄想で覆われていたのだ。

夢物語のなかで生きていた。いや、生きていたかったのかもしれない。

 

 

“今”は永遠ではなくて、確実に過ぎ去っていく。

私の場合、“あの頃”に想像したオトナにはなれていないけれど、そんなことはあまり関係なくて。

「早くオトナになりてぇな」と思っていた時期が、自分のなかにもあったことが尊い

たぶん他愛もないことで爆笑している(違ったらゴメン)男子高校生たちの後ろ姿を追いかけながら、ヒリヒリしていた自分の姿を見つけてちょっとだけ嬉しくなったのだ。いいね、いいね、その感じ。

 

女心を理解しようなんて、ちょっと早すぎたんじゃありませんか

 

娘が退院した。

 

子どもの回復力はすごい。昨日は別人のように無口だった娘が、今日は朝からずっと何か喋っている。

そしてひたすら何かを塗っている。

 

目がキランキラン輝く女の子のキャラクターが、何枚も塗られていく。

 

ぬり絵を買ってくると、娘は自分の気に入った絵柄を何枚もコピーしてストックしておく。で、気に入った絵柄ばかりを塗るのだ。

 

同じ表情で同じ格好をした女の子が、気まぐれな色で塗られていく。

どこまで量産していくのかと思って見ていたが、まったく止める気配はなく「え?ママもやりたいの?」なんて言われる始末で、ふたりでキラキラ女子を大量生産した。

 

昼はうどんとアイスを食べた。

その後、運動がてら娘とスーパーに行ったら、種なしブドウを見つけた娘が「これAちゃんが好きなブドウだ」と言った。「そうなんだ」と返すと、なぜだか娘は急に怒りだして「帰る!」と出口の方へ歩いていく。

私は慌てて追いかけていって理由を尋ねると、どうやら「Aちゃんがこのブドウが好きで、だから買いたい」ということを伝えたかったらしい。

なかなか女心を理解するのは、至難の業だ。

 

帰宅してからも再び、キラキラ女子の量産に専念する。同じ表情の女子を塗り続けていると、なんとも言えない心持ちになっていった。

 

そして、ふと思った。

女心なんて、永遠にわからないのかもしれない。

 

 

 

手紙をしたためたくなる時

 

娘が病室で書いてくれた手紙が泣けた。

 

「いままれありがと」

 

やっぱり弱気になったんだな、と思った。

いつも書いてくれる手紙は「いつもありがと」だったのに。

いつもが、いままれ(今まで)に変わっていた。

 

 

病院という場所は、ちょっと弱気になってしまう場所でもある(基本的には励ましてくれる場所だと思う)。

 

病院に長期間いると、時間の流れが変わっていく。

一日が、とにかく長く感じる。

寝ても寝ても眠いし、眠れないときはとことん眠れない。

まるで夢のなかにいるような、現実と虚構の境目が曖昧になっていく。

 

そして、こんなにも侵入的な場所はないと思う。

自分でも見たことのない、肉体の隅々までが露わになる場所。

 

レントゲンに写し出されたソレを見たら、どうしても「え?これ私のですか?」と聞きたくなるし、聞いて「そうだ」と当たり前のように言われても、「はーはーそうですか」と簡単にはならない。

普段目にしていないものを急に見せられても、実感がわかないのだ。

 

普段目にしていないものを見る場所だから、非現実感がつきまとうのだろうか。

 

 

そんな非現実のなかにも現実はある。夢のなかにも現実があるように。

 

今いるのは病院のベッドで、そこに寝ているのは私で、外に出たくても出られない。

あぁ、外を歩いていたのが懐かしいな。

 

そのことにハッと気づく瞬間があって(窓の外を見ているときなんて特に)、そうするとたちまち手紙をしたためたくなる。